お好み焼きといえば、大阪!というイメージが強いと思いますが、お好み焼きには広島風・関西風・東京風(もんじゃ)と大きく分けて3種類あります。
そんなお好み焼きは、いつ頃からどこで食べられるようになったのでしょうか。
この記事では、お好み焼きともんじゃの歴史について解説していきます。
記事の内容
お好み焼きの歴史とは
お好み焼きはいつからあるの?
当時、留学生であった吉備真備(きびのまきび)が、中国の唐で小麦を粉にして水で溶き、薄く伸ばして焼くという 「煎餅(せんびん)」 を学び、日本へ持ち帰りました。
もちろん、すぐに国民に受け入れられたわけでもなく、認知されるまでには時間がかかりました。
ですので、現在のお好み焼きがあるのも、奈良時代から形を変えながら引き継がれていたのですね。
お好み焼きの原型とは?
元々、煎餅は中国の料理で小麦粉を水で溶いてクレープ状に焼き、その中に別に調理された副菜などを包んで食べていましたので、現代のお好み焼きとは全く違う食べ方をしていました。
そして、安土桃山へと時代は流れ、茶聖とまで呼ばれていた、お茶の先人と言われた千利休がお茶菓子として、 「麩の焼き(ふのやき)」 という和菓子を考案しました。
この麩の焼きは、吉備真備が中国から持ち帰ってきた煎餅を発展させたもので、小麦粉を水で溶いて薄く焼き、味噌や砂糖などを焼き上がった生地に塗ってから巻いたもので、
現在の日本で定着されているお好み焼きの原型といわれています。
お好み焼きと一銭洋食の関係とは?
当時はソースをかければ何でも洋食としての扱いをされており、とくに西日本の駄菓子屋で子ども向けのおやつとして人気がありました。
一個一銭で売られていたことから 「一銭洋食」 と呼ばれるようになったのですが、大人が食べるようなものではなく、あくまでも子ども向けのおやつでした。
しかし戦後、食糧不足になり飢餓の時代に注目されたのが、子どもたちが食べていた駄菓子屋の「一銭洋食」です。
大人たちは一銭洋食では満たされないので、主食にするために小麦粉を水で溶いた生地にキャベツを混ぜて焼き、ソースをかけて食べるものへと変化させ、こうして手軽で簡単に作れるお好み焼きが出来たとされています。
ですので、 お好み焼きは「一銭洋食」の発展形とされています。
いつから現在のお好み焼きのスタイルへと変わったの?
焼け野原となった広島では、食べものが非常に少なく食糧難に苦しんでいた時に、アメリカ軍から小麦粉を配給されたようなのですが、元々日本の主食は米であり、小麦粉を食べる習慣はなかったため、あまり受け入れられませんでした。
そこで、当時の人々は配給される小麦粉を使い、魚や野菜を入れたりと色々工夫をしていました。
昭和20年代初期の頃では、空腹感を軽減できる手軽な食べ物くらいとしか受け入れてもらえませんでしたが、昭和30年代に入ると、お好み焼きに対する扱いが変わりだし、いろいろな年齢層からたくさんの支持をされるようになりました。
その後、経済成長を経た日本は一気に豊かになり、さまざまな食材も入手できるようになったため、イカや豚肉など 「お好み」 で好きな具材を入れて焼き上げる、現在の 「お好み焼き」スタイル へと進化していきました。
もんじゃの誕生と歴史とは
もんじゃのルーツは駄菓子屋だった?
駄菓子屋の奥に鉄板の焼き台を置き、小麦粉を水で溶いて薄く焼いたものに、醤油などをつけて食べさせたのが、 「もんじゃ焼き」 の始まりとされています。
もんじゃ焼きの「もんじゃ」の名前の由来は、江戸時代の終わりから明治時代にかけ、子供たちが鉄板に生地で文字を書きながら覚え、食べていたのが始まりで、 もじ→もんじと変わり、文字(もんじ)焼き と呼ばれたのが 「もんじゃ」へと変化 していったようです。
もんじゃ焼きは月島の駄菓子屋から生まれたので、今でも月島の街にはもんじゃ焼きのお店がたくさんあるのですね。
駄菓子のもんじゃと、どんどん焼きの関係とは?
なので、
水分を少なくし生地を固くした、もんじゃ焼きが作られるようになり、それが「どんどん焼き」の始まりです。
どんどん焼きの名前の由来は、屋台に人が集まるよう客よせのために 「どんどん」 と太鼓を鳴らしながら売り歩いていたことから名付けられたと言われています。
お好み焼きともんじゃの歴史とは?元祖はお菓子だった!?のまとめ
現在、何気なく食べている身近なお好み焼やもんじゃ焼きですが、ルーツを辿って行くと意外な歴史があったのですね。
👉お好み焼きの種類とは?大阪のお好み焼きと広島風お好み焼きの違い!
少しだけ歴史を知ることによって、お好み焼きやもんじゃ焼きを食べる際には、会話が盛り上がること間違いなしですね。